西条市


令和6年度   第2回   西条市in小松町

□ 開催日時:

□ガイド担当校:

□テーマ:

10月19日(土) 10:00~12:30

小松高等学校「TEAM TSUBAKI」

「小さな藩の教育先進地を巡る旅」


 

ルート紹介


 

スポット紹介


❶ 佛心寺

(1)姫御門(桜御門)

 陣屋の東側に位置していた裏門で、通称、姫御門または桜御門と呼ばれます。姫御門の名前の由来は、お姫様が通用口として使っていたことだそうです。部署の見張り小屋である番所が残る特徴的な陣屋遺構です。

 門は薬医門(やくいもん)という造りで、お城や家によく使われます。特徴は本柱と控柱が2本ずつあり、屋根の中心が門とずれていることです。これには、控柱が雨によって腐食するのを防ぐ効果があります。

(2)御霊門(みたまやもん)

 境内の北側にあるのが、小松藩の家紋(丸にくぎぬき)が透かし彫りされた御霊門で、もともと藩主墓所の入口にあったものです。


❷小松藩校・養生館跡

 1802年、七代藩主・一柳頼親(ひとつやなぎ よりちか)が藩校「培達校(ばいたつこう)」を開講します。翌1803年、高名な儒学者・近藤篤山を迎え、藩校の名を「養正館(ようせいかん)」と改めるとともに、江戸の制度を取り入れ、施設の拡充と教育内容の充実に努めました。そのため、小松藩から現在の東京大学に相当する日本の最高学府である昌平黌(しょうへいこう)への進学者を多数輩出しました。

 なお、聖廟が近藤篤山旧邸近くの常盤神社に移築されており、養正館にあった蔵書の多くは小松温芳図書館の郷土資料室に保存されています。


❸ 近代女子教育発祥の地碑

 1858年、近藤篤山の弟子・丹信積(たん のぶずみ)の妻、丹美園(たん みえ)が婦女子のために始めた寺子屋跡です。近代女子教育発祥の地碑は、そのことを記念して、小松高校創立80周年記念事業として建てられました。女子教育は明治40年開校の小松町実用女学校に受け継がれ、現在では小松高校ライフデザイン科として小松の地に根付いています。江戸時代の女子教育では読み書きやお裁縫などを行っていたそうです。


❹ 小松実用女学校跡の碑

  明治43年、今の小松公民館の地に小松実用女学校が創立しました。昭和50年代までは、小松高校家庭科の校舎があった場所で、家庭科の生徒はここから学校まで歩いて行事に参加していた時代もあったそうです。


❺近藤篤山旧邸

 近藤篤山氏が40歳から80歳まで、40年間住まわれた屋敷跡です。愛媛県指定文化財に指定されており、県内で公開されている唯一の儒学者の武家屋敷でもあります。

 近藤篤山氏を小松藩に招くことで小松藩全体の教養が高まり、当時の最高学府である昌平黌(しょうへいこう)への小松からの入学者が、県内の他の藩と比べても非常に多くなりました。近藤篤山氏の教えは弟子に受け継がれ、明治維新後も有能な人材を多く輩出するきっかけを作りました。

 庭の奥には近藤篤山氏が好んだという「篤山椿」の原木があり、だいたい3月~4月の間の非常に短い期間だけ、白く可憐な花を咲かせます。


山岡瑞圓大僧正頌徳碑

  昭和16年、山岡瑞圓大僧正は小松高校の全身である子安中学校を開きました。安産祈願の子安大師で知られる四国第61番霊場、香園寺の36代住職でもあり、香園寺の建物を新築して別格本山格とし、民間教育にも力を注ぎました。

 実用女学校と子安中学校が合併して、現在の小松高校に繋がっています。


❼近藤篤山墓所

 伊予聖人と拝められている近藤篤山先生とその一族のお墓です。正面奥、左が近藤篤山氏、右が妻・会田(あいだ)氏のお墓です。近くには、父・篤山に続いて小松の教育に力を注いだ長男・南海、次男・簣山(きざん)のお墓もあります。篤山氏隠退の後、二人の子供も小松の教育に力を注ぎました。

 墓所左奥にあるのが篤山の顕彰碑で、文面は温芳図書館の拓本で見ることができます。


❽ えひめ教育資料館

 小松高校の養正会館内1階にある、2023年に整備された資料館です。

 小松の地に「えひめ教育資料館」を作った理由は、小松は近藤篤山氏を招いて教育に力を注いだこと、丹美園先生が寺子屋を開いたことの他に、江戸時代に東予・中予の中で最も早く犯行を作ったことや明治時代、県内で最も早く学校を作ったことなど、教育に力を注いできた土地だからだそうです。

 館内は「小松の教育に関するパネル展示」、「小松高校や小松地区に残る教育資料」、「愛媛県全般の教育資料」の大きく三つに分けて展示されています。

 





リハーサルの様子

本番の様子


当日のツアー動画はこちらから