新居浜市


令和6年度   第5回   新居浜市

□ 開催日時:

□ガイド:

□テーマ:

12月14日(土) 10:00~12:30

新居浜南高等学校「新居浜魅力戦隊」

「別子銅山の産業遺産めぐり」


 

ルート紹介


 

スポット紹介


❶旧広瀬邸

  住友の初代総理事となった広瀬宰平の邸宅です。別子銅山を支えた実業家の先駆的な近代和風住宅として、平成15年5月に新居浜市初の重要文化財に指定されました。

 特に2階の望遠楼は新居浜市街地から広島まで眺望できる絶景のスポットであり、広瀬宰平もここから銅の製錬をしている様子を眺めていたそうです。


❷ 別子銅山遭難流亡者碑

 明治32年8月28日に別子銅山に台風が直撃し、暴風雨により山津波が発生し、死者513人、倒壊家屋122戸という、別子銅山の歴史の中でもっとも大きな災害が起きました。

 拡大途中であった高製錬所や別子銅山を走っていた鉄道も大きな被害を受け、製錬は新居浜製錬所だけで作業しなければならない非常事態となりました。

 その後、亡くなった方への供養として犠牲者の名前が刻まれたお地蔵さんが一体ずつ作られ、三回忌には、この別子銅山遭難流亡者碑が建立されました。


❸瑞應寺

 室町時代から続く、禅の教えを拠り所にした曹洞宗に属する寺です。全国各地から約30人の修行僧が集まっており、冬には修行僧の雲水が市内を托鉢で巡る、寒行托鉢が行われます。

 別子銅山と瑞應寺の縁は、江戸時代、米の値上がりで別子銅山の労働者が暴動を起こした際に、暴動の解決に瑞應寺の住職が協力したことから生まれました。その後、住職に感謝した広瀬宰平は明治2年に810坪の畑を寄贈し、後に住友の関係者が祀られる長泉堂を建立しました。


❹ 中国人俘虜殉難者慰霊之碑

 太平洋戦争末期の別子銅山では、622人もの中国人が強制連行され、働かされており、そのうち208人が環境の悪さや栄養失調等で亡くなりました。戦後の昭和29年3月25日に第一回慰霊大法要が瑞應寺で開催され、同年、8月14日に収容所があった東平に慰霊碑が建てられた後、瑞應寺に移されました。昭和58年からは新居浜市日中友好協会によって毎年10月1日に慰霊祭が開催されています。


❺ 山根製錬所煙突

 山根製錬所は、明治21年に建てられた銅成分が少ない功績を製錬するための施設で、銅を製錬するだけではなく、製錬で発生する亜硫酸ガスから「硫酸」、残りから「銑鉄」を製造できる、最先端の工場でした。残念ながら事業としては成り立たず、わずか6年程度で製錬所は封鎖されましたが、えんとつは生子山に残され、現在もえんとつ山の愛称で親しまれています。

●公民館

 途中、公民館にて、銅板の折り鶴体験も行いました。


❻ 山根収銅所・下部鉄道

  山根収銅所は、坑内排水(※)を浄化するための施設です。

坑内排水を鉄に触れさせることで起こる酸化還元作用を利用して水を浄化しており、水路がジグザグ構造になっているのは水を鉄に触れさせる時間を長くするためだそうです。

 ※…雨が山に染み込んだり、地下から湧き出したりした水に銅鉱石が触れることで溶け出した水のことで、この水をそのまま川に流すと環境に悪影響を及ぼすもの。

 

 下部鉄道は鉱石や旅客の輸送を行っていた住友金属鉱山運営の鉱山鉄道です。明治22年、広瀬宰平が欧米巡遊を行った際にアメリカ・コロラド州で鉱山鉄道を見て導入を計画し、明治26年に完成しました。別子銅山には上部鉄道と下部鉄道があり、下部鉄道は端出場から海岸の惣開まで約10㎞の長さだそうです。


❼ 大山積神社

  元禄時代、別子銅山の鎮護の神として今治市大三島の大山祇神社から分霊され建立された神社で、炭鉱夫が坑内を出入りする際には坑口に祀られた大神に一礼し、安全祈願を行っていました。社地は時代によって遷移し、現在は新居浜市の角野新田町にあります。また、境内には、鉱山事業で使用されていた別子1号機関車の展示がされていたり、先人たちの環境問題との戦いの歴史を伝えるために建立された四阪島大煙突モニュメントがあります。


❽ 山根グラウンド

  昭和2年、鷲尾勘解治の指揮のもと、別子銅山で働く人たちの健康維持を目的に、住友企業社員の作務によって建設されました。収容人数6万人のグラウンドで、石積みの階段状の観客席は現在も残っており、登録有形文化財にも登録されています。




リハーサルの様子

本番の様子


当日のツアー動画はこちらから