令和6年度 第7回 今治市~大三島~
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10月14日(土) 10:00~12:30
今治北大三島分校(島デザイン部)
「大三島の魅力を発信しよう」
❶二の鳥居
一の鳥居とは近い、二の鳥居にはつなぎ目があり、二本の石でできているため二本造りの鳥居と言われています。
鳥居の上にある額には「日本総鎮守大山積大明神」と書かれています。この文字は平安時代に、三跡として名を馳せていた藤原佐理がしたためて奉納しました。「三島宮御鎮座本縁」には、神からのお告げを受けた当時の天皇が佐理に額をしたためさせたという伝承が記されています。本物は大変貴重なため、飾られているものはレプリカであり、本物は神社横にある宝物館に飾られています。
二の鳥居前の石碑には「総鎮守大山積神社」と書かれてあります。この文字を書いたのは、初代内閣総理大臣として知られる伊藤博文です。この書が書かれた年、ハルピンで暗殺されたため伊藤博文が書き残した書としては公に残る最後のものと言われています。
❷ 御田植祭・抜穂祭、一人角力
大山祇神社にある斎田では党内から選ばれた16人の早乙女が奉仕する、御田植祭が行われます。この時、愛媛県無形民俗文化財でもある一人角力も行われます。一人角力は稲の精霊と一力山が取り組み、豊作を占うものだそうです。
また、旧暦の9月9日には御田植祭で植えられた稲を刈り取る祭典、抜穂祭が行われます。
❸総門
二層構えの総檜造り銅板矢葺き、高さ12mで、両脇に随神像(2.5m)が立っています。随神とは、ご社殿や神社社地などを守る神様のことです。向かって右側の像のことを左大臣、左側の像のことを矢大臣といいます。左右二神とも弓と矢を携え剣を帯びていますが、これは昔武装して貴族の護衛をしていた近衛府がそのような姿をしていたことから、主神に従い守護する随神の姿も同じような姿になりました。
❹雨乞いの楠、宇迦神社
日本最古の楠です。名前の由来は、約900年程前、大三島で干ばつが続いた際に、伊予国守の藤原範国が能因法師という方を子の大三島に遣わせました。そして能因法師がこの楠の前で雨乞いの祈祷をすると、3日3晩雨が降り続き、干ばつを乗り越えた、という伝説から「雨乞いの楠」と呼ばれるようになりました。
また、奥にある神社は宇迦神社といい、先ほどの能因法師の伝説ののちに建てられたそうで、天気に関する神社です。毎年この神社では、旧暦の4月15日~21日(現在の5月22日~29日)の七日間、好天を祈る祈晴祭が行われています。ここでは、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)という稲の神様をまつっています。
❺大楠
境内のほぼ中央に位置し、「大山祇神社のクスノキ群」の一部として国の天然記念物に指定されています。昔「乎知命(おちのみこと)」と言う神様が植えたとされる木として「乎知命御手植の楠」と呼ばれています。また、息を止めたまま3周すると願いが叶うと伝えられます。
❿河野通有兜掛の楠
大山祇神社は古代より戦功の神として、多くの皇族・貴族・武家が訪れていました。
承久の乱で後鳥羽上皇方について以降、勢力が弱まっていた河野氏は、モンゴル軍が日本にやってくるということで、そこで功績をあげることで河野家の再興を図ることとしました。その直前に、河野通有が河野氏の氏神を祀っているこの大山祇神社に戦功祈願のために訪れ、参拝を前に兜をこの楠の前で脱ぎ置いたとされたことから、「河野通有兜掛けの楠」と呼ばれています。
⓫宝篋印塔
大山祇神社の宝篋印塔を奉納した人物は一遍という鎌倉時代中期の僧侶で、時宗の開祖です。宝篋印塔はすべて花崗岩でできており、1904年に国の重要文化財に指定されています。また、ほかの石材の使用は認められないそうです。
左側の塔は3mぐらいで、石工名の判明する県内唯一の石造塔のなかで最も古いです。中央にある塔は4mぐらいで、四国最大の大きさを誇っています。造立年代は不明ですが、おそらく文保2年以前で県内最古の宝篋印塔ではないかと言われています。
右側の塔は、3mで、これも創立年代は不明ですが、左塔、右塔より新しく、鎌倉時代後半の造立だと考えられます。
⓬生樹の御門
幹の根元に開いた自然の空洞を門に見立て、それをくぐって奥の院へ参拝していたことから「生樹の御門」と呼ばれています。そして、この楠は愛媛県の天然記念物に指定されています。樹齢は、3000年ほどで先ほど紹介した「乎知命御手植楠」よりも古いほぼ最古の楠と言われていますが、樹齢については明確ではなく諸説あるので本当のところは不明です。