テーマ「 別子銅山 」
1691年の開坑から江戸・明治・大正・昭和の4時代に渡って稼働した別子銅山は、日本の代表的銅山であり、新居浜市の成り立ちに深く関わる存在です。同市には、山中深くに眠る銅が掘り出され、海へと運ばれた道の軌跡に沿って、数多くの産業遺産が散在しています。
山の上にポスト?
煙突山(生子山)の守り人「えんとつ山倶楽部」が設置したポスト。このポストに投函されたメッセージは誰に届けられるのだろう。現在と過去を繋ぐポストかもしれない。そのメッセージは未来の人にも届くかな・・・煙突山の上には別子銅山近代化産業遺産の旧山根製錬所煙突(国登録有形文化財)がそびえ立ち、そして眼下には工業都市新居浜市街地の雄大な眺めが広がっている。銅が掘られていたその昔、その煙突から吐き出された亜硫酸ガスは山や田畑の植物を枯死させた。先人たちは元の山に返すためにひたむきに木を植え続けた。時を越え、甦った緑の中に赤いポストが静かに佇んでいる。あなたも、誰かにメッセージを送ってみませんか?
走れ41社の想いをのせて
昔、元禄の時代、伊予の別子に銅山が花開いた。別子銅山は一万を超す多くの人々で賑わった。海抜1,000mの山中に日本初の山岳鉱山鉄道が明治近代化の汽笛を響かせた。別子銅山は新居浜の人・まち・技術を育て、新居浜を小さな農漁村から鉱山集落へ、そして鉱山都市へと成長させた。約300年に渡り長い歴史を紡いできた別子銅山の終焉の地は「マイントピア別子」に生まれ変わった。時空を越え、令和へと脈々と受け継がれた新居浜ものづくり産業のDNAは、新居浜機械産業協同組合41社によって、別子1号機関車に結実した。先人と現代人の技術を融合し、銅山の理想郷を新居浜産業人の想いを乗せ未来へ走れ!別子1号!!
広瀬宰平のまなざし
広瀬宰平という人物は誰よりも周りをよく見ている人だった。38歳という若さで別子銅山支配人となり、仕事の合間にも独学で様々なことを学んだ。このような真面目さが後に新居浜に発展をもたらした。広瀬宰平はフランス人技師ルイ・ラロックの『別子鉱山目論見書』を参考に、次々に別子銅山の近代化の方針を示した。しかし、周囲と意見が合わないことも多々あり様々な壁にぶつかった。それでも広瀬宰平は己を突き通した。この旧広瀬邸にはそのような広瀬宰平のまっすぐな生き様が詰まっている。ここ、「望煙楼」の意味を知り、外に目を向けたとき、きっとあなたもその景観に広瀬宰平へ尊敬と感謝の意を表すことになるだろう。
わたしの通学路は
かつて銅を運ぶ鉄道だった
かつて世界でも有数の産銅量を誇り、日本の近代産業を支えた別子銅山。海抜1,000mを超える山中深くに日本初の山岳鉱山鉄道となる別子鉱山鉄道の上部鉄道が敷設された。銅山から麓へ索道を繋ぐ。そして海岸部へと別子鉱山鉄道の下部鉄道を延ばし銅を運んだ。日本の近代産業を支えた銅の輸送路「あかがねの道」は、遊歩道に姿を変え、銅山(やま)を支えた鉄道マンOBらによって植栽された四季折々の草花が彩りをそえている。通勤・通学路、散歩道やランニングコースとして「市民生活の道」となり、歴史と人々の生活を繋ぎ、現在(いま)も日常にある。これが私の通学路。銅山(やま)からの息吹を感じながらこの道を明日へ向けて自転車を漕ぐ。
制作の様子
令和3年(2021) 10月31日に行ったフィールドワークは、別子銅山産業遺産が散らばる新居浜市全体が舞台となりました。自らが産業遺産のガイドも務める高校生メンバーは、あちこちで大人顔負けのプレゼンを披露。「山の中佇むポスト」「広瀬宰平の目線になれるモダンな部屋」「鉱山鉄道跡のダイヤモンドクロス」など、一人ひとりがマニアックな“推し”スポットを紹介し、大学生メンバーもその奥深さに引き込まれていました。旧広瀬邸の庭園では、アニメキャラクターのコスプレ撮影を楽しむ子供たちに手を焼いたり、急遽予定外のスポットに足をのばして全員小走りで移動したりと、時間いっぱいその魅力を求めて市内を駆け回りました。11月7日には、その盛りだくさんの魅力の中から4枚の写真を厳選するため、愛媛大学で熱く話し合いました。新居浜の街で再発見した別子銅山産業遺産の面白さを表現した、いままでにない4枚のポスターが完成しました。
参考文献
愛媛県立新居浜南高等学校『別子銅山 近代化産業遺産 八十八か所 ふれあい めぐりあい ガイドブック ~マインからマインドへ~【第4刷】』(2021年)
愛媛大学の研究まとめ
「えひめ瀬戸内LINKプロジェクト」の中で、東予地域の高校生とタッグを組み活動した愛媛大学 社会共創学部 井口研究室の皆さんに、各テーマの研究をまとめてもらいました。
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第4回 高校生による歴史文化PRグランプリ