東予地域には、人々の暮らしの変遷を伝える貴重な数多くの歴史文化資源がありますが、その姿は徐々に忘れられつつあります。この度、東予地域の高校生と、歴史文化資源の活用を学ぶ大学生たちがタッグを組み、その魅力を再発見・発信しようと、令和3年(2021) 8月にプロジェクトを発足し、9月4日のキックオフミーティングで活動をスタートしました。各自治体から1校ずつ集まった5校の高校生と、愛媛大学 社会共創学部 井口研究室の大学生が協力して、テーマごとに地域の歴史文化資源について調べ、それぞれの資源がもつ魅力や可能性を表現したポスターを制作し、活用に向けての取り組みを進めています。
今治市(今治北高等学校大三島分校 島デザイン部:テーマ「大見神楽」)
450年間受け継がれてきた大見神楽は、明日神楽とともに「大三島の神楽」として愛媛県の無形民俗文化財に指定されています。大見神楽の舞台となる大見集落では、地域の消防団員等が担い手となり、毎年、家内安全、五穀豊穣を願って神楽が奉納されています。
とんこ とんこ とんとん
今治市大三島 大見八幡太神社と大見神楽
「とんこ とんこ とんとん」これは太鼓と笛で奏される大見神楽の拍子である。長く集落に根差してきた大見神楽は大見の消防団を中心に受け継がれている。彼らは神楽の1週間前から舞の練習や準備を始め、かつては当家の人たちがそれを支えていた。練習後の当家での直会が舞太夫たちの仕来りである。本番当日、神社は神楽の拍子に惹かれて集まった住民たちで賑わい、住民と舞太夫は神楽を通して楽しい時間を共有する。そんな神楽に関わる人たちを温かく見守る動物たち。平成23 年に新築された大見八幡太神社は受け継いできた人たちの“続けていこう” という意思の表れである。「とんこ とんこ とんとん」この舞台で来年もまた、大見神楽が行われる。
露祓い 御神楽の舞
今治市大三島 大見神楽保存会
大見神楽。神に人々の祈りを捧げるため、毎年旧暦の1月12日前後の日曜日にこの集落で神楽が行われる。神楽は舞太夫が列をなして神殿入りするところから始まる。神殿に入って最初の舞は「露祓」と呼ばれ、猿田毘古神を模した天狗の面をかぶった舞太夫が1人で舞う。刀で邪気を切りながら舞う姿は非常に勇壮であり、その迫力は一気に場の空気を変える。その後神殿を清め、しめ縄を張って神を迎え入れると、陣羽織を着た4人の舞太夫が東西南北そして天地に矢を放ち、四方を祓い清める。そして最後には舞上げを行い神楽が終わると人々は使った道具を持ち帰り、家の魔除けとして祀る。こうして神々は、この地におさまり、人々の生活を見守っている。神楽は集落の住民の生活とともにあるのだ。
大空山南麓 豊かな果樹
大見港の風景
今治市大三島 大空山南麓・大見地区と大見港
愛媛県今治市と広島県尾道市を結ぶ「しまなみ海道」のおよそ中央に位置する大三島。島の北西には大空山という名前の山があり、その南麓から瀬戸内海にかけての地域が大見集落である。海と山に囲まれた小さなこの集落はなだらかな坂道や石垣が多く、かんきつの果樹園が広がっている。太陽の恵みを受けたミカンやレモンなどが実り、集落全体が甘酸っぱい香りに包まれる。温かく穏やかな雰囲気のあるこの集落は散歩に適しており、道中の道沿いに佇むお地蔵さんがなんとも愛らしい。ゆったりとした時間が流れるこの集落には、瀬戸内海とかんきつの畑を望める景観とともにおよそ450年の長い歴史をかけ、受け継がれてきた大見神楽が存在する。
瀬戸内海で身を清め神殿に入る
今治市大三島 瀬戸内の潮垢離
大見神楽の神楽殿「大見八幡太神社」の眼下には美しい瀬戸内海が広がっている。神楽が行われる日の早朝、舞太夫たちは大見海岸に集まり、神楽の悪魔祓いで使用する太刀を海水で清めてからこの階段を上がり、神殿入りする。大見神楽は伊勢から大山祇神社に伝わり、明日、そして大見へ伝えられたと言われている。五穀豊穣や家内安全を祈って、毎年新春を祝福して奉納されている小神楽と、昭和12 年まで10 年に1 度奉納されていた大神楽がある。こうして現在に至る大見神楽はおよそ450年もの歴史を誇り、県の無形民俗文化財にも指定されている。大見神楽は、集落で1番大きな行事として大切にされている。人から人へ。今日もその伝統が受け継がれていく。
令和3年(2021) 10月2日に行ったフィールドワークでは、まず大三島を代表する名所、大山祗神社の参道入口からスタート。島デザイン部のメンバーによる参道ガイドを聞きながら古き良き時代にタイムスリップ。続いて、明日八幡神社を訪れ、Uターンされ明日神楽に携わっている方(なんと、島デザイン部メンバーのお父さん登場)に質問タイム。ここからは2チームに分かれて、大見地区(大見八幡太神社・段々畑・大見奥集会所・姫坂神社)を散策し、大見集会所に到着。ここでは、大見神楽保存会や地域の有志の方々から、神楽で用いる楽器や衣装のことなど詳しく教えていただきました。11月10日には、今治北高校大三島分校の図書室で、ポスターの写真を選んだり、キャッチコピーとなる言葉を出し合いました。たくさんの候補の中からメンバー全員で議論を重ねて、大見神楽や島の魅力を伝える4枚を選びました。
参考文献
大三島町文化財保護審議会編『大三島町の祭り』大三島町教育委員会(1999年)
新居浜市(新居浜南高等学校:テーマ「別子銅山」)
1691年の開坑から江戸・明治・大正・昭和の4時代に渡って稼働した別子銅山は、日本の代表的銅山であり、新居浜市の成り立ちに深く関わる存在です。同市には、山中深くに眠る銅が掘り出され、海へと運ばれた道の軌跡に沿って、数多くの産業遺産が散在しています。
山の上にポスト?
新居浜市 えんとつ山を守るえんとつ山倶楽部
煙突山(生子山)の守り人「えんとつ山倶楽部」が設置したポスト。このポストに投函されたメッセージは誰に届けられるのだろう。現在と過去を繋ぐポストかもしれない。そのメッセージは未来の人にも届くかな・・・煙突山の上には別子銅山近代化産業遺産の旧山根製錬所煙突(国登録有形文化財)がそびえ立ち、そして眼下には工業都市新居浜市街地の雄大な眺めが広がっている。銅が掘られていたその昔、その煙突から吐き出された亜硫酸ガスは山や田畑の植物を枯死させた。先人たちは元の山に返すためにひたむきに木を植え続けた。時を越え、甦った緑の中に赤いポストが静かに佇んでいる。あなたも、誰かにメッセージを送ってみませんか?
走れ41社の想いをのせて
新居浜市 マイントピア別子の観光列車
昔、元禄の時代、伊予の別子に銅山が花開いた。別子銅山は一万を超す多くの人々で賑わった。海抜1,000mの山中に日本初の山岳鉱山鉄道が明治近代化の汽笛を響かせた。別子銅山は新居浜の人・まち・技術を育て、新居浜を小さな農漁村から鉱山集落へ、そして鉱山都市へと成長させた。約300年に渡り長い歴史を紡いできた別子銅山の終焉の地は「マイントピア別子」に生まれ変わった。時空を越え、令和へと脈々と受け継がれた新居浜ものづくり産業のDNAは、新居浜機械産業協同組合41社によって、別子1号機関車に結実した。先人と現代人の技術を融合し、銅山の理想郷を新居浜産業人の想いを乗せ未来へ走れ!別子1号!!
広瀬宰平のまなざし
新居浜市 旧広瀬邸・望煙楼からの眺め
広瀬宰平という人物は誰よりも周りをよく見ている人だった。38歳という若さで別子銅山支配人となり、仕事の合間にも独学で様々なことを学んだ。このような真面目さが後に新居浜に発展をもたらした。広瀬宰平はフランス人技師ルイ・ラロックの『別子鉱山目論見書』を参考に、次々に別子銅山の近代化の方針を示した。しかし、周囲と意見が合わないことも多々あり様々な壁にぶつかった。それでも広瀬宰平は己を突き通した。この旧広瀬邸にはそのような広瀬宰平のまっすぐな生き様が詰まっている。ここ、「望煙楼」の意味を知り、外に目を向けたとき、きっとあなたもその景観に広瀬宰平へ尊敬と感謝の意を表すことになるだろう。
わたしの通学路は
かつて銅を運ぶ鉄道だった
新居浜市 自転車道と旧下部鉄道跡
かつて世界でも有数の産銅量を誇り、日本の近代産業を支えた別子銅山。海抜1,000mを超える山中深くに日本初の山岳鉱山鉄道となる別子鉱山鉄道の上部鉄道が敷設された。銅山から麓へ索道を繋ぐ。そして海岸部へと別子鉱山鉄道の下部鉄道を延ばし銅を運んだ。日本の近代産業を支えた銅の輸送路「あかがねの道」は、遊歩道に姿を変え、銅山(やま)を支えた鉄道マンOBらによって植栽された四季折々の草花が彩りをそえている。通勤・通学路、散歩道やランニングコースとして「市民生活の道」となり、歴史と人々の生活を繋ぎ、現在(いま)も日常にある。これが私の通学路。銅山(やま)からの息吹を感じながらこの道を明日へ向けて自転車を漕ぐ。
令和3年(2021) 10月31日に行ったフィールドワークは、別子銅山産業遺産が散らばる新居浜市全体が舞台となりました。自らが産業遺産のガイドも務める高校生メンバーは、あちこちで大人顔負けのプレゼンを披露。「山の中佇むポスト」「広瀬宰平の目線になれるモダンな部屋」「鉱山鉄道跡のダイヤモンドクロス」など、一人ひとりがマニアックな“推し”スポットを紹介し、大学生メンバーもその奥深さに引き込まれていました。旧広瀬邸の庭園では、アニメキャラクターのコスプレ撮影を楽しむ子供たちに手を焼いたり、急遽予定外のスポットに足をのばして全員小走りで移動したりと、時間いっぱいその魅力を求めて市内を駆け回りました。11月7日には、その盛りだくさんの魅力の中から4枚の写真を厳選するため、愛媛大学で熱く話し合いました。新居浜の街で再発見した別子銅山産業遺産の面白さを表現した、いままでにない4枚のポスターが完成しました。
参考文献
愛媛県立新居浜南高等学校『別子銅山 近代化産業遺産 八十八か所 ふれあい めぐりあい ガイドブック ~マインからマインドへ~【第4刷】』(2021年)
西条市(西条農業高等学校 Team SSS:テーマ「うちぬき」)
「うちぬき」とは、霊峰石鎚山を源として、西条市内に自噴する清澄で良質な地下水で、以前は、人力により鉄の棒を地面に打ち込み、その中へくり抜いた竹を入れるだけで自噴する水を確保できていたことから「打ち抜き」呼ばれるようになりました。昭和60年(1985) 3月環境庁から「名水100選」にも選ばれる名水であり、西条市民の生活に深く根差しています。
昭和40年代に上喜多川地区の農家らが共同して手作業で作った野菜の洗い場。背景に石鎚山系と田畑を臨み、西条市のうちぬきと農業をつなぐ伝統ある景観をつくりだしている。「20年ほど前は洗い場の取り合いだったんよ。」と、上喜多川地区で野菜作りをする83歳の農家が話してくれた。全盛期は、22個の洗い場を農家らが奪い合う状況で、野菜の出来栄えを競い合いながら洗っていたというが、時代が変わり農家数の減少などによって最近では洗い場を利用する農家は1日のうち3~4人と減少している。野菜の洗い場は上喜多川地区の農家にとって欠かせない場所であり、私たちが農業をより発展させていかなければと決意した。
潮ひきたる時 清水湧く
弘法大師の加持水なり
本陣川の河口、海底の水源より清水が湧き出ている弘法水。弘法大師が四国霊場を巡礼している途中、老婆に一杯の水をもらった、遠方から汲んできたという苦労を思い、杖の先で強く砂浜を突くとそこから清水がこんこんと湧き出たという伝説が残る。見ての通り四方を海に囲まれているが、そこから湧き出る水から塩気は一切感じない美味しい真水である。現在、弘法水は喜多浜・港新地自治会が維持管理しており、弘法大師像を祀っている小屋には千羽鶴も奉納されていることから、地域住民の信仰の場にもなっている。生活用水としても利用している地域住民の中には長寿が多く、弘法大師の加持水のおかげかもしれないと言われている。
石鎚山 中山川 加茂川の
豊かな水 禎瑞の実り
豊かな伏流水の源、西日本最高峰の「霊峰石鎚山」が雄大にそびえたつ水都・西条市は、県内有数の穀倉地帯である。乙女川に鎮座する「龍神社」には、海路安全や漁業繁栄などの海事一切の守護と各産業の隆盛、家内安全および豊作に必要な灌漑良好を願い海神さまが祀られている。神社の片隅にそっと置かれていた竹ぼうきから、今も地域住民から大切にされていることが伝わってくる。実りの秋には、乙女川の水で大きく育った稲の収穫、禎瑞小学校生が小船に乗り、地域の大人から手ほどきを受けながら伝統を引き継いでいく川狩り、そして豪華絢爛な西条祭りの始まりだ。このすばらしい景色・伝統をどうか守ってほしいと、龍神社での参拝で願った。
打出す清水は結晶の如く
西条市 嘉母神社の自噴水
嘉母神社のうちぬきは、西条市でも数少ない自噴水として西条市民に親しまれている。昭和60年には環境庁により名水百選に、平成7・8年の全国利き水大会では、全国1位のおいしい水に選ばれた。手水舎には「伊よの西条は御城下町かよ 石鎚山から流れる加茂川 神の水だよその又地獄の 岩を打抜くわしらの誇りの 打抜く家業は先祖代々 打出す清水は水晶の如く…」とかつてうちぬき作業に合わせて歌われていたものに、西条を顕彰する歌詞をつけた西條打抜音頭が掲げられている。歌詞に残るほどに愛された西条のうちぬき本来の姿が、ここ禎瑞の嘉母神社の地にしっかりと残され、地域住民の生活に寄り添いながらしっかりと現代に受け継がれている。
令和3年(2021) 11月3日のフィールドワークでは、農業高校生ならではの視点で農産品と「うちぬき」の関連に注目しました。地元農家の方々に「うちぬき」を使った地域での野菜作りの歴史や、野菜の洗い場などの話を聞かせていただき、興味津々に聞き入りました。洗い場に水が張られていく様子や手際よく野菜を洗っている様子に、歓声があがりました。高校生からは「野菜洗いを初めて生で見られてすごく嬉しい」、「地元なのに、このような歴史は知らなかった。貴重な話を聞かせてもらえた」などの声もあり、大興奮の様子。11月27日には、愛媛大学地域協働センター西条にて、写真選定のディスカッションを行いました。候補の写真は、自噴水だけでなく、農作や民謡、都市景観など幅広く、メンバーそれぞれの思い入れのポイントも多様で、写真の選定は難航しましたが、白熱した議論の後、メンバー納得の4枚を選ぶことができました。
参考文献
四国中央市(川之江高等学校 真鍋家住宅を広める会:テーマ「真鍋家住宅」)
真鍋家住宅は、愛媛県四国中央市金生町山田井の切山地区に江戸時代中期からそのままの姿で約300年間存在し続ける、かやぶき屋根がトレードマークの古民家です。東予地方を中心とする民家の祖形として重要であり、1970年に国指定重要文化財に指定されました。平家伝説の残る切山地区の象徴として、かつての暮らしを今に伝えています。
囲炉裏煙る古民家
四国中央市切山 真鍋家の囲炉裏
国指定重要文化財である真鍋家住宅。場所を変えずに江戸時代中期ごろから代々継承されてきた。その間取りは中ねま三間取りとよばれ、「にわ」(土間)にそって「なかのま」・「おく」、その奥に「ざしき」がある、「なかのま」にある囲炉裏は心臓部といえ、そこから出る煙には、柱を丈夫にし、防虫効果がある。また、空気が対流するように家屋が設計されている。真鍋家16代目当主の真鍋潤氏は、地元の広報活動として勉強会や演奏会の実施を支援している。真鍋氏の意向で、訪れる人々に対して真鍋家は驚くほど開放されている。真鍋家に関する技術や知恵を持続的に継承することや、開かれた文化財である真鍋家の活用方法が今後の課題である。
平家の伝説 歴史つなぐ
四国中央市切山 平家伝説と文化資源
愛媛県四国中央市金生町山田井の切山地区には平家伝説が残っており、源氏の攻撃を恐れた安徳天皇が逃げ隠れた地といわれている。そのため、切山には安徳天皇や、天皇を守護した五士にまつわる神社が多く残っている。毎年10月の第1日曜日に行われる秋祭りでは、棕櫚の葉で2本1組に縛った竹筒に入れた甘酒、握った赤飯を多くの神社、祠にお祭りする姿が見られ、これは何百年も前から行われてきた風習として現在まで残っている。これらの神社や伝統を守るために活動している団体が切山平家遺跡保存会や切山自治会である。何百年もの間、この風習が受け継がれてきたことは、切山地区を愛する人々の思いと努力のあらわれといえる。
四国山地 唐谷峠を越え
山里の切山地区へ
愛媛県と香川県の県境に位置する切山地区。かつては平家の一族が身を隠していたといわれる平家伝説が残る。自然豊かな地域であり、県境にある唐谷峠からは広大な山々を見ることができる。山間部に位置する地域は、人口減少や過疎化が問題となることが多く、切山地区も例外ではない。しかし切山地区には真鍋家住宅や生き木地蔵が伝える歴史文化、豊かな自然、地域振興に熱心に取り組む住民といった様々な魅力がある。文化資源と自然資源、それらを支える地域住民の存在を別々に考えるのではなく、「切山」という大きなカテゴリーとして捉え、他地域に向けて発信し、未来に繋げていくことが、四国中央市に住む我々の使命である。
切山のかやぶき屋根
要害の森
四国中央市切山 真鍋家のかやぶき屋根と要害の森
真鍋家住宅は愛媛県四国中央市金生町山田井の切山地区にある寄棟造りの平屋である。茅葺屋根は20年に1回のペースで葺き替える必要があり、最近では2019年に葺き替えられた。その費用は国・県・市だけではなく、見学に来た人の寄付やユネスコ協会の協力でまかなわれた。真鍋家は約300年間切山地区に存在し、それを可能にしているのが、真鍋家を様々な樹木で囲い、防風林としての役割を果たす要害の森。そして切山住民らの協力である。本ポスターでは、修復された茅葺屋根、真鍋家に漂う囲炉裏の煙、そして背景に要害の森を捉えた。真鍋家は切山地区のシンボルとなっており、平家伝説などを含めた歴史を伝える役割を担っている。
令和3年(2021) 10月3日に行ったフィールドワークでは、真鍋家の16代目当主である真鍋潤さんにお話を聞くことができました。車座になり、囲炉裏からたなびく煙に燻されながら、真鍋家住宅の風土に合った工夫や切山と平家の深いつながりについて興味津々に聞き入りました。また、その日は切山地区の秋祭り。準備を進める地域の方にお話を聞いたり、訪れた神社への特別なお供え物に驚いたりと、地域の伝統を脈々と受け継いできた人々の営みに触れることができました。11月23日には愛媛大学に集結し、切山で切り取った景色からポスターとなる写真をみんなで選びました。真鍋家住宅のござの感触、かやぶき屋根を抜けて立ち上る煙、急な坂道の先に見渡した切山の景色…現地で感動したことやびっくりしたことを振り返りつつお互いの思いをぶつけ合い、それらを存分に伝えられる4枚を厳選しました。
参考文献
愛媛新聞「真鍋家住宅装い一新」(2019年9月6日)
上島町(弓削高等学校 Y.M.C.T.:テーマ「雨乞」)
雨が少ない瀬戸内の気候と急峻な地形から、度々水不足に見舞われてきた弓削島では、古くから雨乞い踊りが奉納されてきました。上島上水道「友愛の水」が1985年に整備されたことにより、弓削島の水不足は解消されましたが、雨乞い踊りは、島の小・中学生が担い手となって受け継がれています
さぁまいろう
さぁまいろっさ
越智郡上島町弓削島 雨乞い踊り
雨乞い踊りの起源は室町時代。お盆に祖先を供養するための念仏踊りからできたものだと言われている。500年以上の歴史を持つ雨乞い踊りは、1981年に町指定重要無形民俗文化財となった。現在の担い手は、弓削小学校5・6年生の児童約20人。弓削町無形文化財雨乞踊保存会が指導する。大太鼓と小太鼓、鉦を鳴らし、幡を振る。そして、保護者の着付ける田植え衣装を身にまとい、円を描きながら踊る。「雨を下さい、雨を下さい、龍王様、天に雨はありませんか?さあ、龍王様にお参りしましょう」精一杯の声で、天に祈りを届ける島の子どもたち。島の歴史や先人たちの思いを受け継ぐため。さまざまな思いを馳せ、児童たちは踊り舞う。
井戸のある島の風景
越智郡上島町弓削島 弓削島の暮らしと井戸
弓削島内を歩き、偶然出会ったのは干されたネギ―と共にある「井戸」。この井戸は島民によって島の各所に掘られた。島内を散策するだけでいたるところに見られる井戸の一つ一つに、先人たちの水不足に対する苦難と努力の歴史が詰まっている。1985年から広島県より給水され始めた水を「友愛の水」と呼ぶほどに、島民の水を想う気持ちは強い。水道が整備された現在も、まだまだ井戸は現役だ。井戸水で洗濯や食器洗いをし、災害時にはもらい水として使用する。井戸の周りで子供たちは遊び、天板の上でネギを干す。時代の経過により水を得る方法は変化した。しかし、島民の生活が水と共にあるのは、今も昔も変わらない―。
弓削神社
天に祈りを捧げ 雨を乞う
越智郡上島町弓削島 下弓削の弓削神社と雨乞い
下弓削地区に鎮座するとある神社。五穀豊穣の神々が祀られ、古くから島の人々に寄り添ってきた「弓削神社」だ。かつてこの神社の境内には多くの人々が集まり、雨乞い踊りを踊った。本殿には龍の彫刻。龍は天に昇って雨を降らすという伝承があるが、先人たちもこの龍に祈りを込めて、雨を乞うたのだろう。雨乞い踊りは二日間かけて行われる。始まりは下弓削地区の弓削神社。一行は島を北上し、上弓削地区の高浜八幡神社を経て、久司浦地区の大森神社を最終地とした。これをもう一日かけて弓削神社まで折り返す。周辺の島民を巻き込み、徐々に人数は増えていった。賑やかな雨乞い踊りの歌と音色が境内に響く。そのような風景が弓削島にはあった―。
しまなみ海道の離島
弓削島の暮らしと水
越智郡上島町弓削島 弓削島の環境と暮らし
瀬戸内海に浮かぶ小さな離島、弓削島。山と海に囲まれた私たちの住むこの島は、「塩の荘園」弓削島荘として塩造りで全国的に有名な地だ。揚げ浜式塩田から始まった塩造りは、一年間の降水量が少ない瀬戸内海地方ならではの産業だった。しかし、それは弓削島が雨の少ない地域だということ。山はあるが、川がない。海はあるが、生活水として利用することは難しい。水不足に苦しんできたこの島で「雨」は生命にも等しいかけがえのないものだった。ゆえに、島の先人たちは雨を乞うた。弓削島を象徴する山「ふるほうさん」の山頂で火を焚き祈り、弓削島を踊り歩いたのである。みなが生きるために。どうしても、雨を降らせてほしいのだと。
令和3年(2021) 11月2日に行ったフィールドワークでは、弓削小学校の校庭で披露された「雨乞い踊り」を見学することができました。約20名の子どもたちによる息の合った踊りを間近に見て、高校生も大学生も鳥肌ものの大感動。また、子どもたちへのインタビューでは、「みんなの太鼓の音が合うととても楽しい」「衣装は気に入っている。お兄ちゃんがやっていて、面白そうでかっこ良かった」といった子どもたちの雨乞い踊りへの熱い思いを聞くことができました。11月23日には、愛媛大学でポスターづくりの肝となる写真選びを行いました。特に、井戸の写真と神社の写真はたくさんあったので、選ぶのは大変でしたが、井戸の写真は、住民の方がネギを干していた生活感溢れる写真に決定。神社の写真も、弓削島らしく海の近さが伝わる高浜八幡神社や大森神社も捨て難かったのですが、より雨乞いのテーマに近いということで、龍の彫刻が美しい弓削神社に決定。渾身の4枚を選ぶことができました。
参考文献
大弓削町誌編さん委員会編『弓削町誌』(1986年)
愛媛大学 社会共創学部 井口研究室による研究まとめ
「えひめ瀬戸内LINKプロジェクト」の中で、東予地域の高校生とタッグを組み活動した愛媛大学 社会共創学部 井口研究室の皆さんに、各テーマの研究をまとめてもらいました。
第4回 高校生による歴史文化PRグランプリ
2022年2月11日にオンラインで開催した「第4回 高校生による歴史文化PRグランプリ」では、調査テーマとポスターを元に地域の魅力をプレゼンテーションし、最優秀賞には新居浜市の「新居浜南高等学校(テーマ:別子銅山)」、優秀賞には越智郡上島町弓削島の「弓削高等学校(テーマ:雨乞)」が選ばれました。高校生達の熱いプレゼンテーションの様子を、ぜひご覧ください。